誰も教えてくれない「お金」の話

人はなぜお金を欲しがり、貯め込もうとするのだろうか?
巷でよく口にする人がいる。「お金さえあれば、何でも買えるし、夢も叶う。」
確かにその通りだ。お金さえあれば、絶世の美女も手に入るし、今のご時世「ZOZOTOWN」の社長のように宇宙旅行だって可能だ。

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お金の起源をさかのぼる

そのお金だが、ルーツを辿れば石器時代にまで遡る。ミクロネシアヤップ島のフェイの大石が起源との説もあるようだが、いずれにしても、物々の交換から、腐食することなく持ち運びにも便利な、石や貝殻で賄うようになった。石であれ、貝であれ、人がお金と認識したときからそれはお金になる。一度お金と認識されれば、どこへでも飛んでいく。お金を「お足(おあし)」というのは、ここから来ている。

お金=信用あってのもの

人にお金をお金と認識させるためには、信用が不可欠だ。それは国家なり中央銀行なりの信用である。信用とはクレジットのことだ。クレジット会社は、信用の裏打ちがあって初めてお金を貸し付ける。信用できないお金、つまりお金をお金と思わなくなれば、ただのゴミでしかなくなる。

中央アフリカジンバブエでは、ムガベ大統領の独裁政治により猛烈なハイパーインフレが発生し、1米ドルの交換が一兆ジンバブエドルにもなった。政府は何度もデノミで対処するが、焼け石に水の如くで、イタチごっこを繰り返した。子供が遊ぶ公園では、風に舞うジンバブエドル紙幣に、誰も見向きもしない。

ソビエトでも、子供達が観光客に近づき、しきりにルーブルと、観光客の手持ち外貨との交換を持ち掛けている光景を目の当たりにしたHISの沢田秀雄社長が、この国は近いうちに潰れると実感したという。
事実そうなった。1991年の冬のことだ。

それでは、国家や中央銀行への信用の担保は何であろう。
これは、お金が発生して以来長らくであった。所謂「金本位制」である。
その姿は金そのものを通貨とする金貨から中央銀行が発行する金兌換紙幣へと変わるが、金の保有量しか貨幣を造らないという基本ルールは同じである。
金は世界中誰でも信用する。昔も今も変わらない。
金はオリンピックプール3杯半程度しか存在しない希少金属であることに加え銀や銅等と違い、腐食や化学変化を起こさない安定した金属であることがその理由に挙げられる。

それにしても、人類が金を最も価値ある金属と認識したのは、太古の地球上で、ほぼ同時であったというから何とも不思議である。
金には人間の本能に深く食い込むような魅力があるのだろう。

お金は使ってはじめて価値がある

さて、人間が作り出したそのお金だが、お金そのものには何の価値もない。
お金は、何かと交換するための対価物である以上、使わなければ意味はない。
家、車のような耐久消費財や服、アクセサリーのような装飾品を買う。レストランで食事やサービスの提供を受ける。カルチャークラブやスポーツジムで習い事をする。等など、全てはお金の支払いによって成し得る行為だ。
お金とは人間が便利に使うために、考え出された道具に過ぎない。
よって使わない道具は無きに等しいのだ。

しかし、人間はより多くのお金を欲しがる。
その理由は、端的に言えば無知による不安からくるものが大きい。
不安なく安定した生活を生涯に渡り維持したい。誰もが願うことだ。
そのためには、どうしてもお金が必要になる。倒産やリストラによる失業、世大黒柱の予期せぬ病気や死亡等不安を掻き立てる例ならいくらでも挙げられる。
しかし、我が国は社会保障制度が十分に備わっている。
日本人が日本でまっとうに暮らす限り、どんな状況に追い込まれたとしても路上生活や飢え死にすることはないのだ。これは納税の有無にかかわらない。
勉強不足が無知になり、更には自分が無知との認識さえ持っていない。

無知が生んだ悲劇

無知は人に利用され、付け込まれる。 

「老後のために投資信託を・・・病気や死亡に備えて生命保険を・・・」
マイナス金利に喘ぐ銀行では手数料稼ぎのため、今や窓口対応時の常套句だ。
どれほど甘美な言葉で飾ろうと、投資は投資だ。必ず儲かる保証などない。さりとて、購入時の手数料と毎年の信託報酬は必ず発生する。
保険も同様、怪我や病気にならなければ、掛け金分が損となる。付け加えれば病気になりそうな人、死にそうな人は、初めから保険加入など出来ないのだ。
投資や保険を検討する前に、一つひとつの不安の種をピックアップして、それに対する国や自治体からの救済制度を調べていけば、それほどお金を貯め込む必要もないことが分かってくる。

未成年で4人を殺害した、永山則夫死刑囚が獄中で記した「無知の涙」では、極貧の家庭に生まれ、義務教育さえ満足に終えられなかったことによる己の、無知が故に犯した、罪に対する心情が赤裸々に綴られている。
無知とは悲しく、ときに自虐的行為へと走らせる。

金の亡者の末路

しかし、その一方で豊富な知識と社会適応力を備えていても、貯まれば貯まるほど、更に貪欲さを増す輩もいる。
先日、有価証券報告書に嘘の役員報酬額を記載して逮捕されたカルロス・ゴーン日産会長もその一人だ。罪名は総額50億円の報酬を隠したことによる金融商品取引法違反だ。ゴーンは、1999年に2兆円の有利子負債を抱え、倒産の危機に瀕していた日産自動車の社長に就任し、僅か3年で見事に復活させた。当時40歳代の若き経営者だ。

古典落語に「松竹梅」と言う演題がある。
名の一字に松、竹、梅が付く3人の男衆が、出入りの店の旦那から縁起がいいからと、娘の祝言にお呼ばれされる。
そこで3人は、お礼にとお囃子を披露する。
これが、
松の字「蛇になった。蛇になった。当家の婿殿蛇になった。」
竹の字「当家の婿殿何蛇になられた。」
梅の字「長者になられた。」
と五・七・五調の軽快な口上でやるところ、物覚えの悪い梅の字が「亡者になられた。」と、やらかして、大騒ぎになる噺だ。

これから言えば、三顧の礼で迎えられ、日産を救ったカリスマ社長は「長者」になられてから、いつの間にか「金の亡者」へと変貌してしまった。
いくら大金持ちでも体は一つしかない。住む場所も、食べる物も、着る物も、
車や旅行をするにも限界がある。
人間が持つ資産が20億円以上になると、後はどれだけ増えても使い切れず、意味がなくなると言われている。
私にとっては天文学的数字だが、それでもなんとなく分かるような気がする。
ゴーンはしかし、法を犯しながら貪欲にお金を求めた。
こうなると、お金はブランドのバッグや服と同じ、ファッション感覚でしかなくなってくる。自分の持ち物を見せびらかして、悦に感じる。それである。
ゴーンは世界中の大金持ちに対する競争心に燃えていたのだろう。

伊豆井ヤンベルの考察まとめ

「欲とは海水の如く。入れば入るほど渇きを覚え更に欲しくなる。」
ドイツの哲学者ショーペン・ハウアーの言葉だ。
人間は、いつまで、どこまでお金に囚われ、縛られるのだろう。
お金は人間が支配するものだ。お金に支配されれば、何れはゴーンの辿った末路に行き着く。

最後になるが、生きる上での四つの苦しみ「生・病・老・死」から解放されるために、三十歳を前に出家したゴーダマ・シッタールダ(釈迦)は以後80年の生涯を閉じるまで悟りを求め、サイのごとく、ひたすら歩き続けた。
悟りとは、人、物、金、名誉など、全てに囚われないことだと言う。
囚われる心が無くなれば、楽になる。
シャカ国(ネパール)という豊かな小国の王子でありながら、その地位を捨て、物乞いの旅の果てに辿り着いた境地だ。
仏教に限らず宗教の役割は、生きとし生ける者の魂の救済にある。
この世に生を受けてから死を迎えるまで、何を得、何を捨てるかは人それぞれに異なる。

答えは自分で見つけ出すしかない。