人間のエゴについて。日本人の死生観から考察

人間とは、実にエゴイストな生き物だ。
自己の観念や常識とやらのためなら、周りに悪影響があっても構わない。
例を挙げれば、亡くなった人が入るお墓にも言えることだ。
新聞の記事によると、高齢者は死後お墓に入ることに拘らない傾向にあるが、若い世代では、お墓に入りたいと考える割合が多いという。
最近は、散骨や自然葬など自分の遺体の処理にも選択肢が増えている。
しかし、人は何故自身の遺体の処理に拘るのであろうか?

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死んだらどうなる

誰もが口にする。「死んだらお仕舞。生きているうちが花。」
だが、実際にはそうは思っていない。思っていないから死後の自分に対する処遇に拘るのだ。
「家族らに安らかな死後を祈念してもらいたい。」
「仏壇に綺麗な花や線香を手向けて貰いたい。」
大方の人はそう考えるであろう。
それはつまり、自分自身の死を根底から、受け入れてはいない心理の表れなのだ。
人が死んだら何処へ行って、どうなるのかなど誰にも分からない。
分からないことが不安で、受け入れようとしない。
心のどこかで、死んでも生きている。生きていたいと密かに乞う。
だから骨だけになった自分の組成物をこの世に残しておきたいと願うのだ。
しかし、この感情こそがエゴに他ならない。
人が亡くなれば必ずお墓に入るということになれば、いずれは地球上が墓だらけになってしまう。
人間が生存する限り、生死は繰り返され、その分死者の総数は増え続けるからだ。極めて単純な理屈だ。

明治時代以前の日本では

明治以前の日本で入墓するのは、身分の高い武家豪農など一握りの特権階級だけだった。それ以外の大多数の庶民は、近くの山などに生身のまま埋められてお仕舞。もちろん墓標や墓石など有りはしない。
まさに自然に返されて、「無」に帰すのだ。

人間のエゴが環境を破壊する

数年前私は、親戚の頼みで墓地探しに同行したことがあった。
市街地から数十キロメートル離れた山間にある、地方公共団体が開発した広大な公営墓地。周囲には、ブナや桑の木が生い茂る、豊かな自然が保たれていた。
墓地に辿り着くまでに「熊出没注意」の黄色い看板も何度か見かけた。
一区画につき数十万円前後の永代使用料に加え、数百万円単位の墓石を購入して、ここにお墓を求めた人は、熊に注意しながら、やはり年に数度は、ご先祖様の供養に訪れるのだろうが、注意喚起された熊の方も迷惑千万な話だ。
元々熊の生活圏に入り込んで荒らしているのは人間の方であり、さらに言えば、生存のための占拠であれば致し方ない。との考えもあるかも知れないが、死者に対する供養などとは、所詮今生きている者の自己満足でしかない。
その場所に生息する動物や森林等は、エゴイズムな人間の欲望を満たす行為に振り回され破壊されることとなる。

仏教から見る日本人のエゴ

日本人がお墓を建てる場合、殆どは仏教に則った形式になるだろう。
しかし、仏教にはそもそも先祖供養や、死後の世界などという観念はない。
仏教の観念は、天上界から地獄までの六界を回る輪廻転生だ。
従って、墓や仏壇等の考え方もない。
先祖供養の考え方は、儒教が持つもので日本の仏教が後年都合のいいように取り入れに過ぎない。
(秦の始皇帝は、儒教書を焚書にして、数百人の儒学者を生き埋めにしているが、儒教の考え方は現代にあってもかなり問題があると、米国弁護士でタレントのケント・ギルバート氏は厳しく批判している。)
バラモン教カースト制による差別や、耐えがたい苦行に疑問を感じた釈迦が、新しい考えを取り入れて導き出したのが仏教である。
選民宗教であるユダヤ教に疑問を感じ、教えの対象を万民に変えたキリストと同じ発想だ。
今でも天台宗では、千日回峰行という厳しい修行が行われているが、これは密教の影響が残っているためだ。
お釈迦様が今の日本に現れたら、自分が唱えた仏教の変貌ぶりにさぞ驚くことだろう。
きっと違う宗教と思ってしまうのではないか。

お墓ビジネス 甘い汁を吸う宗教法人

そもそも墓地を造る行為は、「墓地、埋葬に関する法律」で市町村等の地方公共団体の役割と定められており、営利目的での開発は出来ないことになっている。
但し、それにより難い場合には、代わって宗教法人又は公益財団法人が行うことが出来るとされているが、勿論利益を出すことは認められていない。
しかし、墓地は金になる。
宗教法人や公益法人がこれに食指しない訳がない。
公益法人は全事業の半分を営利目的にしてもいい。帳簿上で墓地開発経営の利益を他の事業に振り替える。
行政庁の県が監査をして、了承されれば無事終了。
これを毎年繰り返せばいい。
念のため担当者を定年後天下りでお迎えしておけば、なお完璧だ。
自分の将来の天下り先には監査の目も甘くなる。
私の住む地域で墓地開発を手掛ける公益財団法人でも、役員の一人は県職員OBになっており、役員報酬の平均は年額1千万円を超えていた。
これは、公開が義務づけられている会計報告書をネットで閲覧すれば確認できる。

伊豆井ヤンベルの考察まとめ

どれ程前からなのかは知らないが、何時消えてもおかしくない、砂上の楼閣のような常識に囚われて墓地、墓石などに高額な金を使えば、喜ぶのは一部の法人や業者であることを念頭に置いておかなければならない。
よく「墓地を買った。」と言う人がいるが、お金を払って得たものは、あくまでも永代使用の占有権であり、登記上の所有権が移転したわけではない。
調整区域に指定された二束三文の山面の、たった1~2坪程度の借用に、よくも百万円単位の金を払うものだ。
こんな人に限って、複数のスーパーのチラシを見比べて、同じ品物に付けられている、たかだか数円違いの最安値検索に血眼になっている。
滑稽だ。
無知は悪知恵に利用され、金づるにされる。
肝心なことは、裏に潜むカラクリによくよく注意して、じっくり考えることだ。
そしてもう一つ、宗教は人間だけのものだが、自然は人間だけのものではない。
よく考えてみよう。

不動産のプロも騙される「地面師」の手口。詐欺について考察

詐欺の起源は、人間が生きるために、必要に応じ自在に変化させる知恵を身に着けた時に始まる。
原始時代、狩りのため掘った穴の表面を草で覆う仕掛けなど、獲物に対する詐欺と言える。 明治に入り開拓団として北海道に入植した本土の日本人が、当時3つまでの数の概念しかなかったアイヌに対し、物々交換の数量を誤魔化して搾取していた話は有名だ。

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詐欺にダマされる人々

一口に詐欺といってもその手口はさまざまである。ほぼ単独犯の寸借や結婚から、グル―プで行う手形や偽装倒産の商事。海外での養殖や未公開株・社債等の投資。最近ではオレオレや還付金に至るまで詐欺の種類も多岐に渡る。
その中で特に土地に専科した詐欺師を地面師と呼ぶ。先般、国内大手のハウスメーカーが土地取引で、55億円を超える詐欺被害に遭ったニュースが巷を騒がせた。近年の土地価格の値上がりにより、地面師の動きが活発になってきているという。

昭和の中頃から平成バブルが弾けるまでの地面師の手口は、所謂原野商法が一般的であった。熊笹が生い茂るような二束三文の土地を、「近年開発が予定されており、着工されれば価格は何倍、何十倍にもなる。」と甘い言葉で誘って売り抜ける手法だ。騙された被害者の多くは、今でも転売の当てがなく、渋々毎年固定資産税だけ払い続けている。最近では、この被害者を狙って「土地を買い取りたい。」と話を持ち掛け、買付証明書まで発行して信用させたうえで、事前の測量や調査費の名目で百万単位の金を騙し取る手口も確認されている。買付証明書など一流企業の発行ならそれなりに信用も出来るが、名も知らぬ会社の発行書では、それこそ二束三文の価値もない。会社の実態等は、法務局で商業登記簿を確認したり、管轄の宅建協会に問い合わせでもすれば分かることだが、金のペーパー商法で投資家から数千億円の金を騙し取り、最後は社長が殺害された、豊田商事の「金預かり証書」同様、仰仰しく押された会社印が放つ、黄金色の書面にコロリと騙されてしまう。「泣きっ面に蜂」とは正にこのことだ。
まぁ、こう言っては申し訳ないが、いつの世も騙される人間には、回数の上限がないようだ。

不動産のプロが騙された!「地面師」の手口とは

さて、最近の地面師の手口はと言うと、前述のハウスメーカーで使われたやり方が主流だ。つまり土地所有者への「成りすまし」だ。最初、地面師は、都市部の一等地で虫食いのようにぽつんと一区画だけ空いているような土地を方々物色し、候補地をリストアップする。そして登記簿で所有者の現住所や権利関係等を洗いざらいチェックし、所有者が高齢で権利関係に面倒がなく、かつ遠方に住んでいて現地確認も儘ならぬ物件を選び出して、詐欺のお膳立てを始めるのだ。準備としては、まず所有者本人に成りすます人物を探し出す。
これは、温泉旅館に住み込みで働いているような訳アリな者を、裏社会を通じて紹介してもらえば、いとも簡単に見つかる。この役目は、後にほぼ間違いなく逮捕されることになるが、世の中には多額の借金の棒引きを条件に喜んで引き受ける人間がいくらでもいるのだ。現に前述の事件で、所有者に成りすました女が逮捕時に、それは覚悟の上と言わんばかりの不敵な笑みを口元に浮かべる、大胆な態度がテレビに映し出されていた。

話を戻すが、かようにして代役が決まれば、次にこの人物が売買契約で登場する当日に、相手側にばれないように教育する係の出番となる。所有者の生年月日、干支から中学時代に憧れていたスターなど咄嗟に答えられるよう入念な教育が施される。こうしている間に、偽造書類作成係によって偽造された書類一式が出来上がる寸法だ。運転免許証、パスポート、住民票、印鑑登録証明書、固定資産税通知書等である。そして準備万端、首尾よくパクリの本番当日を迎えるのだ。取引が高額になる場合、契約時には通常売主側でも弁護士、司法書士等専門家を揃え、立ち会わせる。
当然この事件でも、買主に疑問を抱かせないよう地面師側が用意した弁護士、司法書士も立ち会っているはずだが、実は、この先生方も地面師とグルの場合が少なくない。最も、たとえグルだとしても、先生方が逮捕されることなど、まずあり得ない。
なぜなら、詐欺罪とは、自分が初めから騙そうとして、その行為を行ったものでなければ成立しない。要は内心の問題なのだ。法律を熟知している専門家が間抜けなドジなど踏むはずはない。たとえ捜査員や検察官に詰問されたとしても、「知らなかった。騙すつもりなどなかった。」と言えば、それまでなのだ。
余談だが、因みに、よく法廷で熱血イケメン、美人弁護士が冷徹な検事とやり合った末、見事容疑者の無罪を勝ち取って、「めでたし、めでたし」で終わるドラマを見かけるが、現実には有り得ない。検察は99.9パーセントの確率で有罪が見込める場合でも起訴はしない。つまり検察が起訴をするということは、有罪100パーセントが二往復するくらい確実なものなのだ。検察が起訴して、無罪の判決など出たら面子にかかわるし、第一に担当検事は無能の烙印を押され、出世の道は閉ざされてしまうだろう。

またも脇道に逸れたが、話を戻す。今回の詐欺事件の場合、住民票が揃ってなかったり、成りすまし役の女が、干支を言い間違えたりしている。もし、この時相手を冷静に観察するゆとりがあれば、当日に被害を回避する道は残っていたはずだが、どうしても手に入れたいという欲が、被害回避の道を塞いでしまったと言える。
結果、契約は成立し、法務局に所有者移転の登記を申請した時点で、窓口から印鑑証明の偽造を指摘され、ようやく騙されたことに気が付いたのだ。殆どの場合、契約当日に売主側が、買主側に渡す書類と金銭(小切手等)の受け取りは同時に履行される。この時もおそらく書類、金銭のやり取りから、法務局で偽造が指摘されるまでの時間は、僅か数時間程度だったと予想されるが、これも地面詐欺を企てる連中にとっては百も承知で、後はシナリオ通りにさっさと小切手を現金化してドロン。気付いた時には万事休すだ。

この事件で、ハウスメーカーの社長が引責辞任に追い込まれたが、新聞等では、商談が進む過程で、取引に疑問を呈する部下もいたという。しかし、この社長はワンマンだったのだろうか、部下が率直に進言できるような雰囲気には程遠い会社だったのかも知れない。結果こうなっては、社長に辞任でもしてもらわない限り株主とて、すんなりと総会を終わらせてはくれまい。

この事件では、8人が逮捕され、海外に逃亡した1人が指名手配されたが、 55億円の金はもちろん返ってなど来ない。

女社長で有名なあの大手ビジネスホテルも詐欺の餌食に・・・

実は、これと前後して都内の某総合病院と大手ビジネスホテルが別な地面師から其々数十億円に上る詐欺被害に遭っている。大手ビジネスホテルの場合、有名女社長が世間に恥と醜聞を晒すだけだとして、あまり表だった発表はしていない。戻って来ない金の行方に拘るより、さっさと損金扱いにして節税した方がましとの判断だ。
損害賠償の民事訴訟にも弁護士費用など、決して安くないお金と時間が掛かる。そういった意味では、合理的判断とも言える。

さて、ここでもう一つの可能性だが、もし、この時すんなり登記がなされていたらどうなっていたであろうか?詐欺に利用された土地には、おそらく分譲マンションが建設され、一部は億ションとして売り出されることになったはずだ。
一般にマンション等の不動産を購入する場合、信用の根幹は法務局で発行する登記簿謄本になる。買主は、ここで表題や売主の権利関係がきちんと登記されていることを確認して、購入の是非を判断する。
しかし、この登記が事実と相違していた場合、たとえそれを信じて不動産を購入したとしても、購入者に利益の保護はない。元々偽装による登記の場合、真の所有者が申し出をすれば、登記は無効となる。「取消し」ではなく、初めから無いものとなる「無効」なのだ。
不動産登記には対抗力はあるが、根本の公信力はない。つまりニセの申請書類で登記され、登記簿謄本で別人の所有となっている物件を善意で(知らずに)購入したとしても、それを信用したあなたが悪いとなる。
何とも無慈悲な話だが、残念ながら日本の法律が適用される場所ではこうなってしまう。現実に世の中には、このような土地を買って、泣き寝入りしている人も少なからずいる。

もう、誰も信じられない

では、一体何を、誰を信じればいいの?となるが、究極を言えば、土地については、何も、誰も信じられないということに、ならざるを得ない。

そう言えば、弁護士や司法書士等の専門家が手広く不動産事業を展開しているという話はあまり耳にしないが、それは専門家故にリスクを知り尽くしており、他人のもめ事の相談は受けても、自分自身は近づかないのであろう。ここでは長くなるので記さないが、土地には他にも様々な落とし穴が存在する。地面師は、この穴の表面を綺麗に覆い隠し、上手に獲物を落とし入れようとするのだ 。

詐欺にダマされる人間の愚かさ

こういった意味では、原始時代から現代に至るまで詐欺の手口は変われども、騙す側の根本心理に変わりはないということだ。そうなると、騙される側もノコノコと穴に近づき落ちてしまう獲物と変わらないということになるが、どうであろう?
だいたい土地などと言うものは、元々微生物のような生命が誕生するよりも遥か以前に、要は地球が誕生した当時からあっものだ。それが、人間という生き物が現れてから、「ここは私の土地だ。いや俺の土地だ。」とやり合うこと自体アホらしいと思えなくもない。
そんなくだらないトラブルに巻き込まれて、大切なお金や、まして人生を楽しむ貴重な時間を奪われてしまったら、取り返しのつかない損失だ。人生は有限、時間は戻ってはくれない。  いずれにしても、自ら望んで土地にかかわるときには、くれぐれもご用心を・・・・・だ。

伊豆井ヤンベルの考察まとめ

最後になるが、世界を股にかけて暗躍する超一流の詐欺師によれば、一番騙され難いのは、ギリシャ人で次が中国人だそうだ。世界の名だたる詐欺師でも相手がギリシャ、中国人となると諦めると言う。どちらの国も長い歴史の中で、栄華と辛酸を繰り返し味わって来ている。そういった積み重ねが騙されない気質を涵養させてきたのだろう。

では、彼ら詐欺師にとって日本人はどう見えるのだろう。 島国根性丸出しの騙し易い連中とでも考えているのであろうか?機会があったら聞いてみたい。まぁ、そんな機会はあり得ないだろうが・・・・・
もっとも仮に実現したとして、ペテン師の話をどこまで信じるかは、また別な話になる・・・・・

誰も教えてくれない「お金」の話

人はなぜお金を欲しがり、貯め込もうとするのだろうか?
巷でよく口にする人がいる。「お金さえあれば、何でも買えるし、夢も叶う。」
確かにその通りだ。お金さえあれば、絶世の美女も手に入るし、今のご時世「ZOZOTOWN」の社長のように宇宙旅行だって可能だ。

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お金の起源をさかのぼる

そのお金だが、ルーツを辿れば石器時代にまで遡る。ミクロネシアヤップ島のフェイの大石が起源との説もあるようだが、いずれにしても、物々の交換から、腐食することなく持ち運びにも便利な、石や貝殻で賄うようになった。石であれ、貝であれ、人がお金と認識したときからそれはお金になる。一度お金と認識されれば、どこへでも飛んでいく。お金を「お足(おあし)」というのは、ここから来ている。

お金=信用あってのもの

人にお金をお金と認識させるためには、信用が不可欠だ。それは国家なり中央銀行なりの信用である。信用とはクレジットのことだ。クレジット会社は、信用の裏打ちがあって初めてお金を貸し付ける。信用できないお金、つまりお金をお金と思わなくなれば、ただのゴミでしかなくなる。

中央アフリカジンバブエでは、ムガベ大統領の独裁政治により猛烈なハイパーインフレが発生し、1米ドルの交換が一兆ジンバブエドルにもなった。政府は何度もデノミで対処するが、焼け石に水の如くで、イタチごっこを繰り返した。子供が遊ぶ公園では、風に舞うジンバブエドル紙幣に、誰も見向きもしない。

ソビエトでも、子供達が観光客に近づき、しきりにルーブルと、観光客の手持ち外貨との交換を持ち掛けている光景を目の当たりにしたHISの沢田秀雄社長が、この国は近いうちに潰れると実感したという。
事実そうなった。1991年の冬のことだ。

それでは、国家や中央銀行への信用の担保は何であろう。
これは、お金が発生して以来長らくであった。所謂「金本位制」である。
その姿は金そのものを通貨とする金貨から中央銀行が発行する金兌換紙幣へと変わるが、金の保有量しか貨幣を造らないという基本ルールは同じである。
金は世界中誰でも信用する。昔も今も変わらない。
金はオリンピックプール3杯半程度しか存在しない希少金属であることに加え銀や銅等と違い、腐食や化学変化を起こさない安定した金属であることがその理由に挙げられる。

それにしても、人類が金を最も価値ある金属と認識したのは、太古の地球上で、ほぼ同時であったというから何とも不思議である。
金には人間の本能に深く食い込むような魅力があるのだろう。

お金は使ってはじめて価値がある

さて、人間が作り出したそのお金だが、お金そのものには何の価値もない。
お金は、何かと交換するための対価物である以上、使わなければ意味はない。
家、車のような耐久消費財や服、アクセサリーのような装飾品を買う。レストランで食事やサービスの提供を受ける。カルチャークラブやスポーツジムで習い事をする。等など、全てはお金の支払いによって成し得る行為だ。
お金とは人間が便利に使うために、考え出された道具に過ぎない。
よって使わない道具は無きに等しいのだ。

しかし、人間はより多くのお金を欲しがる。
その理由は、端的に言えば無知による不安からくるものが大きい。
不安なく安定した生活を生涯に渡り維持したい。誰もが願うことだ。
そのためには、どうしてもお金が必要になる。倒産やリストラによる失業、世大黒柱の予期せぬ病気や死亡等不安を掻き立てる例ならいくらでも挙げられる。
しかし、我が国は社会保障制度が十分に備わっている。
日本人が日本でまっとうに暮らす限り、どんな状況に追い込まれたとしても路上生活や飢え死にすることはないのだ。これは納税の有無にかかわらない。
勉強不足が無知になり、更には自分が無知との認識さえ持っていない。

無知が生んだ悲劇

無知は人に利用され、付け込まれる。 

「老後のために投資信託を・・・病気や死亡に備えて生命保険を・・・」
マイナス金利に喘ぐ銀行では手数料稼ぎのため、今や窓口対応時の常套句だ。
どれほど甘美な言葉で飾ろうと、投資は投資だ。必ず儲かる保証などない。さりとて、購入時の手数料と毎年の信託報酬は必ず発生する。
保険も同様、怪我や病気にならなければ、掛け金分が損となる。付け加えれば病気になりそうな人、死にそうな人は、初めから保険加入など出来ないのだ。
投資や保険を検討する前に、一つひとつの不安の種をピックアップして、それに対する国や自治体からの救済制度を調べていけば、それほどお金を貯め込む必要もないことが分かってくる。

未成年で4人を殺害した、永山則夫死刑囚が獄中で記した「無知の涙」では、極貧の家庭に生まれ、義務教育さえ満足に終えられなかったことによる己の、無知が故に犯した、罪に対する心情が赤裸々に綴られている。
無知とは悲しく、ときに自虐的行為へと走らせる。

金の亡者の末路

しかし、その一方で豊富な知識と社会適応力を備えていても、貯まれば貯まるほど、更に貪欲さを増す輩もいる。
先日、有価証券報告書に嘘の役員報酬額を記載して逮捕されたカルロス・ゴーン日産会長もその一人だ。罪名は総額50億円の報酬を隠したことによる金融商品取引法違反だ。ゴーンは、1999年に2兆円の有利子負債を抱え、倒産の危機に瀕していた日産自動車の社長に就任し、僅か3年で見事に復活させた。当時40歳代の若き経営者だ。

古典落語に「松竹梅」と言う演題がある。
名の一字に松、竹、梅が付く3人の男衆が、出入りの店の旦那から縁起がいいからと、娘の祝言にお呼ばれされる。
そこで3人は、お礼にとお囃子を披露する。
これが、
松の字「蛇になった。蛇になった。当家の婿殿蛇になった。」
竹の字「当家の婿殿何蛇になられた。」
梅の字「長者になられた。」
と五・七・五調の軽快な口上でやるところ、物覚えの悪い梅の字が「亡者になられた。」と、やらかして、大騒ぎになる噺だ。

これから言えば、三顧の礼で迎えられ、日産を救ったカリスマ社長は「長者」になられてから、いつの間にか「金の亡者」へと変貌してしまった。
いくら大金持ちでも体は一つしかない。住む場所も、食べる物も、着る物も、
車や旅行をするにも限界がある。
人間が持つ資産が20億円以上になると、後はどれだけ増えても使い切れず、意味がなくなると言われている。
私にとっては天文学的数字だが、それでもなんとなく分かるような気がする。
ゴーンはしかし、法を犯しながら貪欲にお金を求めた。
こうなると、お金はブランドのバッグや服と同じ、ファッション感覚でしかなくなってくる。自分の持ち物を見せびらかして、悦に感じる。それである。
ゴーンは世界中の大金持ちに対する競争心に燃えていたのだろう。

伊豆井ヤンベルの考察まとめ

「欲とは海水の如く。入れば入るほど渇きを覚え更に欲しくなる。」
ドイツの哲学者ショーペン・ハウアーの言葉だ。
人間は、いつまで、どこまでお金に囚われ、縛られるのだろう。
お金は人間が支配するものだ。お金に支配されれば、何れはゴーンの辿った末路に行き着く。

最後になるが、生きる上での四つの苦しみ「生・病・老・死」から解放されるために、三十歳を前に出家したゴーダマ・シッタールダ(釈迦)は以後80年の生涯を閉じるまで悟りを求め、サイのごとく、ひたすら歩き続けた。
悟りとは、人、物、金、名誉など、全てに囚われないことだと言う。
囚われる心が無くなれば、楽になる。
シャカ国(ネパール)という豊かな小国の王子でありながら、その地位を捨て、物乞いの旅の果てに辿り着いた境地だ。
仏教に限らず宗教の役割は、生きとし生ける者の魂の救済にある。
この世に生を受けてから死を迎えるまで、何を得、何を捨てるかは人それぞれに異なる。

答えは自分で見つけ出すしかない。